1916年、ピカソはディアギレフ率いるロシアバレエ団の舞台美術を担当した(ジャン・コクトー作『パラード』)。そこでバレリーナのオルガ・コクローヴァと知り合い、1918年に結婚した。オルガはピカソをパリの上流階級の社交界に引き入れ、ブルジョア趣味を教えた。ふたりのあいだには息子〈パウロ〉が生まれた。ピカソははじめのうちこそ妻に調子を合わせていたが、しだいに生来のボヘミアン気質が頭をもたげ、衝突が絶えなくなった。
1927年、ピカソは17才のマリー・テレーズ・ワルテルと出会い、密会を始めた。ピカソはオルガと離婚しようとしたが、資産の半分を渡さねばならないことがわかり、中止した。ピカソとオルガの結婚は、1955年にオルガが亡くなるまで続いた。ピカソはマリー・テレーズと密会を続け、1935年に娘〈マイア〉が生まれた。
またピカソは1936年から1945年まで、カメラマンで画家のドラ・マールと愛人関係をもった。彼女はピカソ芸術のよき理解者でもあり、『ゲルニカ』の制作過程を写真に記録している。
1944年、ピカソは若い画学生、フランソワーズ・ジローと付き合い始めた。そして〈クロード〉と〈パロマ〉が生まれた。しかしフランソワーズはピカソの嗜虐趣味と浮気癖に耐えかね(註・彼女の主張による)、1953年に2人の子をつれてピカソのもとを去り、ほかの男性と結婚した。このことは、ピカソに大きな打撃を与えた。
しかしピカソはすぐにつぎの愛人をみつけた。ジャクリーヌ・ロックという女性で、南仏ヴァロリスの陶器工房で働いていたところをピカソに見そめられた。1961年に結婚。しかし、これにはピカソのフランソワーズに対する意趣返しという目的が隠されていたといわれる。当時フランソワーズはクロードとパロマの認知を得る努力をしていたので、ピカソはフランソワーズに「結婚を解消すれば、入籍してあげてもいい」と誘いかけた。これに乗ってフランソワーズが離婚すると、ピカソはすでにジャクリーヌと結婚していた。
このころピカソは、ジャン・コクトー監督の映画『オルフェの遺言−私に何故と問い給うな−』(1960年)に、彼自身の役でカメオ出演した。
なおピカソの死後、マリー・テレーズとジャクリーヌ・ロックは自殺している。